堂々たる風格と絢爛たる輝きは大江戸の威厳そのもの。
徳川の誇りに満ちた大判金と美麗な小判金を特別頒布いたします。
『万延大判金』
表面の四方と裏面に押された後藤家の桐極印。江戸時代は五三の桐が打刻されたものだけが金貨として認められました(写真は裏面)
裏面の上部の亀甲印
裏面下部の後藤家花押
座人印と棟梁印
出会うことが滅多にない「元書」
墨書こそが大判金を評価する上で、重要な基準となります。中でも一番高価値が置かれるのが「元書」です。当時書きとも呼ばれるように、最初の墨書がそのまま残っているのですから、出会うこと自体が滅多にありません。
『万延小判金』
裏面の後藤家花押
座人印と 棟梁印
経済の荒波にさらされた幕末の時代背景を物語る歴史的黄金
■維新の気運が頂点に達した万延年間。1853年、黒船に乗ったペリーがアメリカから浦賀に来航し、徳川幕府は横浜、長崎、函館を開港します。その結果、鎖国体制は崩壊し、金銀比価の違いから、海外へ金貨が大量に流出。幕府財政は困窮を極めます。
そこで、前代未聞の苦境に立たされた徳川家は最後の威信を賭け、大胆な貨幣改革を断行。『万延大判金』を鋳造するのです。
■それまで大判金は恩賞用として造られていましたが、この一枚は初めて25両で通用する金貨として用いられました。
江戸時代の金貨製造を一手に担った後藤家の第十七代・後藤典乗の墨書は桐極印と美しく調和し、最後の大判金にふさわしい風格。輝きが実に美しく、徳川の権力を誇示しているようです。
■また同時期に鋳造されたのが『万延小判金』です。一両あたりの金の量を減らして造られたように、この小判金は世界の荒波にさらされた時代背景を物語ります。つまり、1両あたりの金量を国際基準に近付け、海外に対抗しようという目論みがあったのです。とはいえ、品位はそれ以前の安政・天保小判金と変わらず、かわいらしい姿形から「姫小判」と呼ばれ、尊ばれました。
いずれも鑑定書と桐箱つきです
日本貨幣商協同組合の鑑定書
桐箱に納めてお届けします
■当事の富豪や大名の千両箱にひしめいていた万延年間の大判金と小判金。いずれも後藤家が幕府のために心血を注いで生み出した歴史的名貨です。この度は特別にセット価格を実現! 年々、残存数が減り続けており、代々受け継ぐご家宝とするにふさわしいことと存じます。ぜひこの機会にご所蔵ください。
愛知県指定の文化財であり、国の登録文化財 !
明治天皇が熱田神宮に奉納した万延大判金
江戸時代以降、歴代天皇は各地へ行幸する際、大判金や小判金を全国の神社に献納した歴史があります。中でも明治天皇には数々の逸話が残されています。明治元年、弱冠16歳の陛下は勅使を遣わし、王政復古を奉告。戦乱続く東北の平定を祈願する宣命を下賜し、江戸へ行幸します。そして、道中の愛知県・熱田神宮で御供料として献納されたのが万延大判金です。この一枚は表の墨書が鮮明で、手擦れもなく保存状態は抜群。現在は「明治天皇御奉幣大判」という名で、県指定の文化財・国の登録文化財として同神社に保管されています。